人生の大きな気付き

週末に京都にいった。その時に大きな二つの気づきを得たきがする。
一つ目は「愛」についての理解。
二つ目は「高飛車な自分」の理解。



一つ目の気づきは、あるセミナーに参加した参加を仲間で話をしているとき。
「愛」と「宇宙はひとつ」が同じ意味ということが私には理解できなかった。
「宇宙は一つ」という考え方はきっと理解できている。しかし、それが「愛」とリンクしないんだ。
そこから、やはり私は「愛」を理解できてないって思った。
でも、尊敬する人の本を読んだとき、少しだけ理解できた気がしたんだ。
夫婦の関係は、二人を一人と思うことでうまくいく。って当たり前の話で、そこで思いやりとかいう言葉がでてくるんだけど、「思いやり」がすでに他人事なんじゃないかって思った。
一つだったら、思いやりじゃないよなっーって。
当たり前のことを本当に理解した瞬間ってなんだか次のステップにすすめるような気がした。
ただ、まだ理解しきれていないとは思うが、何かきっかけをつかんだ気はした。


もうひとつの気づきは、京都の町家宿舎で知り合った人との会話で気づいた。
自分はプライドの高い人間ではないとずっと思っていた。でも、まったくITに関係のない世界で生きている彼との会話はすごく新鮮だった。スマホばかり触っている私をすごく不思議そうにみて、ITの世界について話をすると「気持ち悪い」という。すごく当たり前の感情だと思った。
そういった人を馬鹿にすることはないけれど、本当に理解していたかというと、そんなことはないとすごく感じた。
私はITが嫌いだ。人間の本当に大事なものをなくしている気がするから。そんな風に思っているからこそ、IT慣れしていない人たちの言葉はすごくまっとうだと思いながらも、理解していない自分に気づいた。
何故いままで気づくことができなかったのか?彼ほど純粋にITかぶれしてない人と話せてなかったからな気がする。ここまで純粋な人と出会うことがないと、気づくことができなかったんだ。それはなんらかのプライドみたいなものが邪魔していたのではないか?ってなんだか思った。
固定概念を捨てきれてなかった。聞く耳をもてなかったのだと思う。



そして気づきとは違うけど、奈良に行った時の会話で、魚のつかみ取りの話にすごく「怖い」と思った。子供をつれて日帰りで伊勢に潮干狩り+魚の掴み取りにいき、家で魚をさばいたという話を聞いた。その魚はきっとつかみ取りように弱らせてあっため、あまり新鮮じゃなかったとのこと。
魚の命をいただくってすごく感謝して生きるためにいただくものだと思う。それを「娯楽」としている「人間」がすごくこわいと感じた。
この「魚」が「人間」だったら・・・。人間を弱らせて、機械に殺させるゲームなんてされたとおもったら・・・。


人間の本質を忘れたくない。
そんな風にすごく感じた京都・奈良の旅だった。
そして物事を純粋に素直に受け止めていきたいとおもった。